第2回 「思考機械」とジャック・フットレル(ジャック・ヒース・フットレル)
第2回 「思考機械」とジャック・フットレル
(ジャック・ヒース・フットレル)

オーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼンは、哲学博士(PH.D.)、法学博士(LL.D.)、王立学会会員(F.R.S.)、医学博士(M.D.)、歯科博士(M.D.S.)であり、アメリカはボストン地区の某大学教授。名前と肩書でアルファベットのほとんどの文字を使ってしまうという驚くべき人物だが、この人物のことをわれわれは名前で呼ばず、「思考機械(The Thinking Machine)」というニックネームで呼んでいる。

もちろんこれは実在の人物でなく、アメリカの作家ジャック・ヒース・フットレルが小説の中で作り上げた天才的探偵である。

ヴァン・ドゥーゼン教授が思考機械の異名を得た経緯がふるっている。「最初に命名したのは新聞社で、チェスの全国大会が開かれたときであった」「彼はアメリカ選手権保持者からわずか一日の指導を受けただけの知識で、当時チェスの世界選手権を握るロシア人チャイコフスキイと勝負を闘わした。8手目で、チャイコフスキイは余裕の笑みをひっこめ、14手目を打ち終えると、教授は『15手目で王手』と言った。世界チャンピオンは『なんと!』と叫んでからこうつけ加えた。『あんたは人間じゃない。頭脳そのものだ。いや、機械といったほうが的確だろう――まさに思考機械だ!』――かくしてヴァン・ドゥーゼン教授は《思考機械》と呼ばれるようになった」
(ジャック・フットレル「思考機械の事件簿」Ⅰ、1977年7月、創元推理文庫刊、戸川安宣の解説より)

思考機械シリーズは都合45編(うち長編は1編)書かれたと言われているが、正確には分からない。新聞紙上に発表されたまま単行本未収録の作品も多いからだ。
代表作は言うまでもなく「十三号独房の問題」。思考機械が脱出実験のために入った堅牢な独房からいかにして脱出するかを描いたこの作品は、世界短編推理小説史上屈指の傑作とされる。エラリー・クイーンの「黄金の十二」をはじめいくつものアンソロジーに収録され、日本でも江戸川乱歩編の「世界短編傑作集1」(1960年7月、創元推理文庫刊)などで現在も読み継がれている。

同作は1905年、ボストン・アメリカン紙に発表されたが、こんな面白い試みで人々の目を引いた。「同年10月30日から6回にわたって連載される小説(「十三号独房の問題」のこと)を読んで、その挑戦に見事な解答を出した者には、総額100ドルの賞金を進呈する。解決編は11月5日号の日曜版に載るので、これぞという名答を寄せられたい」。この試みには多くの解答が寄せられ、第1席として50ドルを得た読者もいた。思考機械に挑戦して見事に賞金を獲得した読者も、また思考機械なみの頭脳を持っていたのかもしれない。

 作者ジャック・フットレルは1875年4月9日、アメリカのジョージア州生まれ。日本で言えば明治8年に当たる。父親はフランス系のユグノー教徒だった。ヴァージニア州リッチモンドで新聞の仕事に従事し、短期間ながら劇場の支配人も務めた。その後、ボストンに引っ越し、ボストン・アメリカン紙に入社する。ということでお分かりのように、「十三号独房の問題」で思考機械をデビューさせたとき、彼はその発表紙の編集スタッフの一員だった。
日本の新聞でも明治のころは、記者自身が記事や論文、創作を書く場を得るために新聞を創刊する、作家が新聞社に入社するなどのケースが多く見られた。岸田吟香、柳河春三、成島柳北、福地桜痴ら、花形記者にして経営者の新聞人はそうして生まれたし、夏目漱石はやがて朝日新聞に入社して小説の代表作を矢継ぎ早に書く。
アメリカでもどうやら事情は同じだったようである。ちなみに同じくボストン・アメリカン紙出身の推理作家に、名探偵チャーリー・チャンの生みの親E・D・ビガーズがいる、と前出の戸川安宣も指摘している。

新聞人にして作家のジャック・フットレルは、思考機械ものだけでなく多くの推理小説をはじめ、歴史小説、ウェスタン、社会小説、恋愛小説、スポーツ小説、政治小説などを発表した。その大衆小説の名手としての名声は、アメリカだけでなくイギリスやヨーロッパ諸国にも響くようになり、多くの作品が海を越えて出版されたという。
そんな世界的な人気作家も、40歳を迎える前に鬼籍に入ってしまう。死去したのは1912年4月14日か15日。日付でピンと来た方が多いかもしれない。ジャック・フットレルは夫人とともにあのタイタニック号に乗っていたのだ。遭難事故に遭ったとき、彼は妻を救命艇に押しやり、自らは船に留まって海底に没したという。その最期もまた、波乱万丈の大衆小説で人気を博した作家にふさわしかった。(こや)


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2011/01/26 18:07 | コラム「たまたま本の話」

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