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2024/04/26 01:52 |
第48回 帰ってきた「かもめのジョナサン」 (リチャード・バック)

第48回 帰ってきた「かもめのジョナサン」 (リチャード・バック)
かつてのブームに比べるとまだささやかなものだが、「かもめのジョナサン 完成版」(2014年6月30日、新潮社刊)が快調なスタートを切っているという。7月31日付読売新聞首都圏版夕刊1面の広告には、「発売たちまち1位店続出 7万部突破!」の文字が躍っていた。40年前に読んだよ、という年配の読者も多いと思うが、今回はジョナサン・リヴィングストンという1羽のかもめの話に少しだけお付き合い願いたい。

 同書の著者リチャード・バックは1936年イリノイ州生まれの元米空軍パイロット。除隊して飛行士などをしていたが、1970年に発表した「かもめのジョナサン」が全世界で4000万部を売る大ベストセラーとなった。日本では1974年6月、五木寛之の「創作翻訳(創訳)」として新潮社から出版され、最終的に260万部を記録している。
 今回の「完成版」は、元版のパート1~3に、新しくパート4(結末)を付け加えたものである。著者バックの「完成版への序文」によれば、パート4は当時すでに書き上げられていたが、作者があえて外した(「物語にこの結末が必要だとは信じられず、どこかへ置きっぱなしにした」)のだという。

 あらすじをたどっておこう。餌をとるために飛ぶという目的に疑念を持ち、飛ぶこと自体に本来の価値を見出したジョナサンは、危険な高速飛行を繰り返し練習したために、仲間や長老から異端視され、群れを追放されてしまった。それでも飛行練習を繰り返していた彼は、やがて光り輝くかもめに導かれてより高い次元へと上っていく(パート1)。

 そこには飛ぶことの歓びに目覚めたかもめたちがいて、教官のサリヴァンの指導を受けたジョナサンは高度な飛行技術を習得する。また、長老の張(チャン)からは「天国とは、場所ではない。時間でもない。天国とは、完全なる境地のことなのだから」という教えと、瞬間移動(テレポーテーション)の能力を授かる(パート2)。

 そしてある日、ジョナサンは弟子になったかもめのフレッチャーたちを連れて下界に戻る。追放かもめが戻ってきたぞ! 無視しろ! と群れのかもめたちに通達が出るが、ジョナサンの弟子になるかもめは次々に増えて行った。岩にぶつかったフレッチャーを蘇生させたことで、ジョナサンはかもめの群れから悪魔と恐れられ、2羽は遠く離れた場所に身を隠す。やがてジョナサンは遠い彼方に消え去り、後を継いだフレッチャーが若いかもめたちの指導者となる(パート3)。

 40年前の元版はここで終わっていた。「無限なんですね、ジョナサン、そうでしょう? 彼は思った。そして微笑した。完全なるものへの彼の歩みは、すでにはじまっていたのだった」というフレッチャーのモノローグで物語は締めくくられている。
 かつてこの小説や映画「わらの犬」などを取り上げて、「あのころは東の風が西に向かって吹いていたのだ」と指摘したのは、評論家の故・瀬戸川猛資だった(「夢想の研究」、1993年2月、早川書房刊)。
 瀬戸川は「かもめのジョナサン」にタオイズム――西欧化された道教の影響を見ていた。道教は漢民族の伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは、世界を「精神と物質」に分離化してとらえる西欧的二元論のいわば対極にある考え方だ。「万物の合一性と相互関連性を自覚し、孤立した個としての自己を超越して究極のリアリティーと一体化することにある」というのが、タオイズムの基本的理念である。
 そうした観点から「かもめのジョナサン」を読んでみると、ジョナサンにテレポーテーション(空間の超越、つまり万物の合一性につながる)を指南した長老かもめは張(チャン)という東洋名だったし、死んだフレッチャーが蘇生するのは、道教の理想とする不老不死(仙人になること)を象徴しているとも読める。実は70年代の英米文化を席巻したタオイズムの先駆けのような小説なのである。

 さて、そこで今回の完成版で追加されたパート4を見てみよう。新しく師となったフレッチャーだが、ジョナサンから継承した自由と飛行の伝道が思うように進まなくなっていく。若いカモメたちは飛ぶ練習をするよりも、フレッチャーにジョナサンのことを聞きたがったのである。こんな調子だ――「ひとたび、メッセージを学ぶことに興味を持つと、彼らは厄介な努力を、つまり訓練、高速飛行、自由、空で輝くことなどを怠るようになっていった。そして、ジョナサンの伝説のほうにややもすれば狂気じみた目を向け始めた。アイドルのファンクラブのように」。
 直接ジョナサンから学んだ弟子たちも、やがては次々に世を去っていく。そしてフレッチャーが最後に消えたとき、「ジョナサンの聖なる言葉」だけが残った。そのあたりを作者バックは序文で「ジョナサンを慕うカモメたちが儀式ばり、頭でっかちになって、飛行の精神を形骸化していくだって? これは違う!」と、当時を振り返って強く自己否定している。ではなぜ今、あえて発表したのか。

 これはパート4をどう読むか、ということにつながるが、ラストの死を意識した若いかもめのアンソニーの前に、驚異的なスピードで飛ぶ謎のかもめが現れる。そして「ジョナサンだ」と名乗る。つまりジョナサンの偶像しか知らない信者の前に、時を超えてジョナサンの実像が復活する。これはタオイズムで言う「神仙」の究極の姿のようにも思われる。「何だ、俺はちゃんと書いていたじゃないか」と作者バックは感じたのかもしれない。40余年に及ぶパート4の封印を解いた理由は、おそらくそこにある。(こや)



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2014/08/09 13:16 |
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