第51回 ハーレクインとフェミニズムが握手する(尾崎俊介)
アメリカ文学者の須山静夫と大橋吉之輔。前者はウィリアム・フォークナー「八月の光」やウィリアム・スタイロン「闇の中に横たわりて」などの名訳で知られる。後者は言うまでもなくシャーウッド・アンダスン研究の世界的権威である。今は亡き2人の碩学のどちらかに師事しただけでも幸福な人生と言えるだろう。ところが何と両者から薫陶を受けたという果報者がいる。その名は尾崎俊介。その後、恩師たちと同じアメリカ文学研究の道に進んだ。昨年、須山との思い出をつづったエッセー集「S先生のこと」(2013年2月、新宿書房刊)で、第61回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。
2014年現在、愛知教育大学で教鞭を執る尾崎は、アメリカン・ペーパーバック本の表紙絵の研究が専門というユニークな教授でもある。このたび「ペーパーバック」「ハーレクイン・ロマンス」「ブッククラブ」と、3題噺のようなテーマでエッセー集をまとめた。「ホールデンの肖像 ペーパーバックからみるアメリカの読書文化」(2014年10月、新宿書房刊)で、これがめっぽう面白い。
思わずうならされたのは、1963年という年がアメリカにおける新世代フェミニズム誕生の年であったと同時に、「ハーレクイン・ロマンス」がアメリカで販売を開始した年であったという興味深い指摘である(「ハーレクイン対フェミニズム――呉越同舟のメカニズム」、2005年3月、「中部アメリカ文学」第8号発表)。
フェミニズムと、ハーレクインに代表される型にはまったフォーミュラ・ロマンスは、まさしく水と油であろう。しかし両者はどちらも下火になることなく現在に至っている。「つまり、女性を結婚制度の呪縛から解き放とうとするフェミニズムの潮流と、逆に女性の結婚願望を煽るかに見えるロマンス・ブームの潮流は、1963年という年を起点にして同時進行的に進展しながら、共にこの時代のアメリカ文化に影響を与えていたのである」。
これはまさに目からウロコが落ちる好論文なので、ぜひ紹介しておきたい。以下は、尾崎が海外文献から参照した部分も交えての引用となる。
まずはハーレクイン・ロマンスのパターンについての説明。「女性読者の恋愛願望を元に作られるロマンスとは具体的にはどういうものかと言うと、簡単に言えばヒロインが素晴らしい男性と偶然出会い、その男性と結婚することによってそれまでの退屈な日常生活から解放され、豪奢でエキサイティングな暮らしを手に入れるという筋書きの、典型的なシンデレラ・ストーリーということになる」。そしてヒロインの造型はといえば、「通常ハイ・ティーンか20代前半という年頃、金髪・碧眼で背は小柄、明るく愛敬のある女性だが、絶世の美女ではなく、特に優れた能力は持ち合わせていないものの純粋で気立ての良い女性、ということになっている。いわばどこにでもいる女性ということである」。
一方ヒーローは「ヒロインの平凡さとは対照的に、容貌・身体・知性において傑出した人物として描かれるのを常とする。またヒロインが金髪・碧眼であるのに対し、ヒーローの方は大抵肌の色が浅黒く、髪の毛や目の色は漆黒である。人種的にはアラブ/ラテン系であることが暗示され、またそれにふさわしく情熱的な気質の持ち主なのだが、その気質を強い意志の力で制御しようとするために外見的には鬱々としているように見え、また時には情熱を抑えきれずに暴力的な行動に及ぶこともある。協調性はなく、組織に順応できるタイプではないものの、知的能力は高く、親戚から大企業の経営を受け継いだというような形で生まれながらの資産家であることが多い」。
フォーミュラ・ロマンスを分析すればするほど、ヒロインとヒーローの造型だけでなく、ストーリー展開までが型にはまりすぎたものだと分かる。フェミニズム派のある批評家もこれらを当初「エリック・シーガルの『ラブ・ストーリィ』から4文字言葉と婚前交渉を省いたもの」と揶揄し、「父権制社会における男性の性的願望を助長させるようなものである」と批判していた。「フォーミュラ・ロマンスを女性(ヒロイン)と男性(ヒーロー)の間で繰り広げられる権力争いの物語と見なし、その闘争の結末においてヒロインが従順な妻としてヒーローの前に屈伏すること、すなわち『男性側に都合の良いファンタジー』に仕上がっていることを問題視」していたわけだが、ではなぜ天敵のような両者が呉越同舟することになったのか。尾崎は海外の文献を踏まえてこう指摘する。
「(別の批評家Xは)ハーレクイン・ロマンスのようなフォーミュラ・ロマンスを、ヒロインとヒーローが互いに鎬を削る権力争いの物語と見なすものの、どちらがその勝者かという点では(前述のフェミニズム派批評家と)まったく逆の見解を示す。(Xは)ロマンスというのは結局金と権力を持ったヒーローをヒロインが愛の力で飼い馴らす物語、つまり美女が野獣を屈伏させる物語なのであって、この権力争いの勝者はむしろヒロインである、と結論づけるのだ」。
いやはや驚かされる。フェミニズムから最も遠い立ち位置にあったはずのハーレクイン・ロマンスが、権力に対するヒロインの勝利で終わる点で実は同じ方向性にあった、と尾崎の論文は指摘しているのである。
フォーミュラ・ロマンスの嚆矢とされる1919年の「シーク 灼熱の恋」(E・M・ハル作)はかつて映画化され、ヒーローを演じたイタリア系俳優ルドルフ・ヴァレンティノが世の女性の感涙をしぼったものだった。あるいは20世紀初頭から、女性たちは小説のそして映画のロマンスに身をひたしながら、フェミニズムと握手していたのかもしれない。(こや)
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