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2024/05/04 13:54 |
第50回 「大聖堂」を読み解けば・・・(レイモンド・カーヴァー)

第50回 「大聖堂」を読み解けば・・・ (レイモンド・クリーヴィー・カーヴァー・ジュニア《レイモンド・カーヴァー》)

 レイモンド・クリーヴィー・カーヴァー・ジュニア(1938年-1988年)――略してレイモンド・カーヴァーの略歴を眺めていて、彼がわずか20歳で作家デビューしていることを知った。
 最初に活字になったのは1958年に自分が通っていた講座制カレッジに投書した文章で、最初に書いた小説は1961年の「怒りの季節」と「父」である。1980年代には「アメリカのチェーホフ」と呼ばれ、短編小説の名手としての名をほしいままにしたから、どことなく老境の作家をイメージしがちだが、彼は満50歳で死んでいる。つまり代表作のほとんどは30歳代から40歳代に書かれたものなのだ。

 アメリカ本国では1960年代から短編作家として名を成していたが、日本では1980年代に入るまで全く知られざる存在だった。1982年に村上春樹が短編集「ぼくが電話をかけている場所」を編訳したことで一気にブームに火がついた。
 80~90年代のわが国の翻訳小説界を牽引したのは、ジェイ・マキナニーやブレッド・イーストン・エリス、ポール・オースターら、現代アメリカの若手作家たちだったが、そのブームの先鞭をつけたのがカーヴァーだった。
 「Carver‘s Dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選」(村上春樹編訳、1994年12月、中央公論社刊。その後1997年10月、中公文庫刊)は、その村上が選りすぐりの短編を集めた文字通りのベスト集。中でも「大聖堂」(Cathedral、1983年)は素晴らしく、ベスト・オブ・カーヴァーの趣さえある。以下、ストーリーに触れるので未読の方はご注意を。引用は前記の中公文庫版による。

 「私」の妻の知り合いの盲目の黒人が家に泊まりに来ることになった。盲人、そして黒人に対して偏見のあった私だが、来てみるとかなりユニークな人物で、調子が狂ってしまう。一緒に食事をしたり煙草や大麻を吸ったりするうちに、私はこの盲人についてとらえどころのない不思議な感情を持つようになる。テレビではちょうど中世ヨーロッパの教会についてのドキュメンタリー番組が放映されている。そこに大聖堂が映し出される。大聖堂について盲人に説明しようとする私だが、口ではうまく説明できない。「2人で紙に絵を描いてみよう」と盲人は提案する。私の手に彼が自分の手を添えて、一緒に大聖堂を描き終わったとき、生まれてこのかた味わったことのない感覚が到来する。私は「まったく、これは」という言葉をもらす――。

 こうしてあらすじをたどっていても、実にとらえどころのない短編である。訳者の村上自身、扉に寄せた紹介文で「ふとしたきっかけで、物語の流れは2人の『赤の他人』のあいだに生じる奇跡的な魂の融合のようなものへと突き進んでいく。モーツァルト風にいえば、肝のところで例の決定的な転調が訪れるのだ。そのはっと澄み渡る意外な一瞬が素晴らしい」と書いていて、傑作と認めながらも困惑している様子がうかがえる。さて、「奇跡的な魂の融合」と村上が表現するものは何か――ここでちょっと読み解いてみたい。

 いちばん気になるのは夕食のシーンであろう。私と妻と盲人は、なぜ「実に熾烈な食事」を繰り広げたのか。3人はテーブルの上の食事にかぶりつき、残さずたいらげ、テーブルをなめつくし、「まるで明日という日がないといった感じの食べ方」をする。突如、理由なき食欲が彼らに到来したかのような描写には戸惑いを覚えざるを得ないが、まずこの食欲を舌ととらえてみたらどうか。
 舌は人間の五官のひとつで、五感でいえば味覚に相当する。そう考えると、この短編には五官つまり五感にかかわる描写が随所にあることに気づくだろう。五官とは五感を生ずる5つの感覚器官で、いうまでもなく眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)を指す。
 健常者と盲人とがコミュニケーションを図るわけだから、はなから視覚による交流は封じられていることになる。とすれば他の四感に伝達の手段を頼るほかはない。
 前記の食事のシーンは舌=味覚を暗示していようが、2人が吸う煙草や大麻はいうまでもなく鼻=嗅覚を象徴している。そしてテレビから聞こえてくるドキュメンタリー番組のナレーターの声は耳=聴覚を表しているだろうし、2人が手を添え合って大聖堂の絵を描いていく行為はすなわち皮膚=触覚による交流にほかならない。

 以上をまとめれば「大聖堂」という短編は、五感が健在な私と、五感のうちの視覚という重要な要素を封じられた盲人とが、味覚・嗅覚・聴覚・触覚を駆使しながらコミュニケーションを図っていく心の交流の物語だといえるだろう。2人が最後にたどり着いた「奇跡的な魂の融合」は、したがって人間の五感を超えた「第六感」による魂の到達点ということになる。そこに至るまでのカーヴァーの筆致はうまい。
 とくに盲人から「大聖堂について言葉で描写してくれ」と頼まれるシーン。私はテレビ画面を見ながら何とか口で説明しようとするが、大聖堂とは何かをうまく伝えることができない。しかも途中で「私は神を信じてはいないと思います。何を信じてもいない」と、言わずもがなのことまで盲人に吐露してしまうことになる。神を信じていなかったそんな私の元に盲人と一緒に大聖堂の絵を描くことで霊感が降りてくる。いわば神が手を差し伸べてくれる――これはそんな奇跡のような物語なのである。
 カーヴァーという作家の短編からは宗教性をあまり感じないのだが、「大聖堂」だけは例外かもしれない。「この作品については本当に書きたいという衝動を感じた」「何かをつかんだ気がして興奮したんだ」と、あるインタビューでカーヴァー自身も語っていたという。(こや)


レイモンド・クリーヴィー・カーヴァー・ジュニア(レイモンド・カーヴァー)をWIKI PEDEIAで調べる

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2014/10/13 14:15 |
コラム「たまたま本の話」

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