第53回 70年代アメリカを「銃撃!」する(ダグラス・フェアベアン)
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第53回 70年代アメリカを「銃撃!」する(ダグラス・フェアベアン)

 鹿狩りに出かけた5人の男たち。彼らは主人公のレックスを始め、全員がコンバット部隊の退役兵である。川べりにたどり着いたとき、対岸に同じようなハンターたちのグループがいた。
 しばし沈黙の後で相手側が突如、発砲してくる。弾は仲間の1人の頭をかすめた。メンバーの1人がとっさに撃ち返す。弾は相手のハンター1人の眉間を撃ち抜いた。それから激しい銃撃戦になった。銃声が途絶えた隙に、その場を後にする5人。知り合いの医者に、撃たれた仲間の手当てをしてもらう。幸いにして軽症だった。ところがこちらは相手を1人撃ち殺してしまっている。「正当防衛だ」と主張するメンバーたち。さて彼らはどう出てくるか――。

 1973年にアメリカでハードカバー版が刊行された「銃撃!」(原題SHOOT)は、こんなショッキングな書き出しで始まる。作者はダグラス・フェアベアン。何冊か本を書いているが、著名な作家とは言いがたい。
 この小説も翌74年にペーパーバックになり、続いて76年にはハーヴェイ・ハート監督、クリフ・ロバートソン主演によってカナダでひっそりと映画化された。映画は興行的にも成功しなかったという。当然、日本でも未公開。「コンバット 恐怖の人間狩り」というとんでもないタイトルでテレビ放映された後にビデオ化された。すぐに廃版になっている。

 その後、DVD化もされていないため、すっかり忘れられた存在だったが、2011年3月に刊行された「トラウマ映画館」(集英社)の中で著者の映画評論家・町山智浩が取り上げてから、カルトムービーとして一部で評判になった。
 小説のほうは早川書房から1977年5月に「銃撃!」のタイトルで小鷹信光と石田善彦によって翻訳刊行されている。こちらも現在は絶版である。以下、どのようにストーリーが進んでいくか、核心部分に触れるので未読の方はご注意を(引用は「銃撃!」および「トラウマ映画館」から)。

 意外にもハンター射殺事件はニュースで伝えられず、警察がやってくることもなかった。「彼らは流れ弾による事故として通報したのだろう」と主人公のレックスは仲間に言う。そこから奇妙な展開になる。レックスは続けて確信的にこう語るのだ――「来週、あの連中はまたあそこにやってくる。おれたちを待ち伏せるために」。そしておれたちに復讐するだろう、と。なぜなら「あいつらは俺たちに似ていたからだ」。

 「銃撃!」という小説を最後まで読み続けられるかどうか、映画をラストまで見続けられるかどうかは、このレックスの根拠のない確信を読者と観客が信じられるかどうかにかかっている。「戦争だ。受けて立とうじゃないか」と、週末に向けて準備が始まる。
「レックスは予備役兵として州兵の教練を担当している。そのコネを利用して州兵の武器を無断で借り出してしまう。さらに自分よりも若いベトナム帰還兵たちを招集する。武器も人数も多いほうがいい。戦争なのだから」。

 そして週末がやってくる。一向は現場に到着する。ひっそりとして誰もいない。連れて来た若い兵士が、川べりから向こう岸を眺めながら一発マシンガンを撃ち込み、「誰もいないじゃないか!」「おっさんどもの戦争ゴッコにつきあわされてイイ迷惑だぜ!」と言う。次の瞬間、彼は蜂の巣になる。向こう岸に隠れていた、おそらく100人以上の敵が一斉射撃を始めたのだ。小説と映画とはやや異なるのだが、映画のラストは重症で死の床にある、こちら側の唯一の生存者レックスのモノローグ「次があったら、もう失敗はしない。奴らを引き裂いてやる……」で終わる。

 この小説ないし映画のテーマは何かと問われれば、やはり銃社会アメリカを批判したものである、と考えるのが普通だろう。「銃撃!」の訳者あとがきで小鷹信光はこう指摘している――「銃器を正義をおこなう武器とする狂気を育てる土壌が、社会的、風土的にあり、もう一方に、荒々しい戦争体験と殺戮本能がある。
 夫(注:最初に眉間を撃ち抜かれた相手の男)を殺された作中の未亡人がふるう熱弁のように、巻頭で本能的に応射した男のように、彼らは銃で身を守り、わが身に危害をくわえようとする外敵を暴力で倒す。リーダーの召集命令によって、完全武装した一個小隊がたちどころに結成される。宣戦布告のない戦闘が、アメリカ中に現実に存在しているのだ」。
 最後まで戦闘に反対していた仲間の1人も、レックスたちにこう叫ぶ――「おまえたちは、この忌々しい事件がおこってほしいと思っている」「おまえたちの望んでいることが本当になれば、大虐殺がおこるんだぞ」「おまえたちはこういうことが好きなんだ!」

 なるほど――と納得する半面、それだけではこの作品に漂う奇妙な雰囲気がうまく説明できないことも事実だろう。あちこちで指摘されているように、「銃撃!」という作品はあまりにも設定と展開に無理がありすぎる。敵の正体は最後まで明らかにされず、なぜレックスの確信通り、奴らが翌週やってきたのかも全く説明されない。
 とすれば、この小説と映画は銃社会アメリカを描いたリアリズム作品としてでなく、「俺たちに似ている奴ら」によって俺たちが裁かれる反リアリズムのドラマとして読むべきなのではあるまいか。
 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの「分身」は、19世紀ロシアの役人がある日、出現した自分の分身によって裁かれる寓話だった。「銃撃!」は、1970年代の銃社会アメリカに生きる兵士たちが、突如として川向こうに出現した「銃を持った奴ら」という分身によって裁かれ、皆殺しにされる寓話にほかならない。そして銃社会アメリカは、2015年の現在もずっと続いているのだ。(こや)

銃撃! SHOOT ハヤカワノヴェルズ

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2015/01/02 13:48 | コラム「たまたま本の話」

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