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2024/05/02 06:34 |
第62回本格の中に本格があった(エラリイ・クイーン)

海外文学の古典的名作が、ここのところ新訳版で出版各社から復刊されている。翻訳というのは、どんなに名訳でも30年も経てば古くなって、一種の新陳代謝が必要になる。あまりにも有名だが、現在は品切れや絶版で読めなくなっている作品が次々と新訳で刊行され、若い読者が気軽に手に取れるようになるのは素晴らしいことである。
ハヤカワ・ミステリ文庫(早川書房)では、2015年8月にエラリイ・クイーンの「九尾の猫〔新訳版〕」(原著1949年刊、越前敏弥訳)が出た。ニューヨーク全市を震撼させている連続絞殺魔「猫」に名探偵エラリイが挑む、クイーン中期の代表作である。同時にオールタイムベスト級の古典的名作でもあるが、現代風にこなれた新訳版で改めて読み返すと、興味深いことが見えてくる。作中にこんな一節があるのだ。事件の関係者にエラリイが「複数殺人のABC理論」を説くくだりである。以下、「九尾の猫」など諸作品の内容に触れるので、未読の方はご注意を。
「XはDを殺したい。その動機は明らかではないが、もしふつうの方法でDを殺せば、警察の捜査が進むうちに、動機を持つ唯一の人間、あるいはもっとも疑わしい人間がXだとわかってしまう。Xの問題は、どのようにDを殺せばその動機を目立たせずにすむかということだ。そこでXは、Dの殺人をほかの複数の殺人で覆い隠すという方法を思いつき、因果関係のある連続殺人に見せるためにXはあえて同じ手口を使いつづける。はじめにAを殺し、そしてB、つぎにC……。そのあとでDを殺す。こうすれば、D殺しを、鎖のようにつながった一連の事件のひとつの環に見せることができる。警察はD殺しの動機を持つ人間を探さず、AとBとCとDのすべてを殺す動機を持つ人間を探す。しかし、XにはAとBとCを殺す動機などなかったんだから、XのD殺しの動機は見過ごされるか無視される」
これは、かのアガサ・クリスティーの名作中の名作「ABC殺人事件」のあまりにも有名なトリックのことである。1936年にイギリスで発表されたこの作品は、「そして誰もいなくなった」や「アクロイド殺し」と並ぶ、クリスティーの代表作とされている。その名作を、クイーンは13年後の1949年に書いた自作の中で、「複数殺人理論」の例として引用したのだ。「お手軽な探偵養成講座ですね」と事件の関係者に揶揄されると、「Xはそんなにばかじゃない」と、エラリイはさらに続ける。「自分に疑いがかかる殺人でやめてしまったら、連続殺人にまぎれこませた殺しがかえって目立ってしまう。だからXはD殺しのあともE、F、Gと関係のない人たちを殺していく――必要ならH、I、Jも。自分の動機がうまくかすんだと感じるまで、Xは関係のない人間を殺し続ける」。
この部分が、おそらくクリスティー批判になっているのだろう。1936年の「ABC」の犯人は、Cの殺人という本義を達した後、Dを殺すと予告しながらも、投げやりになって人違い殺人を犯してしまうことで、名探偵エルキュール・ポワロに事件の真相を見抜かれる。1949年の連続絞殺魔「猫」は、その轍を決して踏むものか。アメリカ本格派を代表するクイーンのプライドとともに、イギリスの大御所クリスティーへの強烈なライバル心をここからは感じる。連続殺人を描かせたら俺の右に出る者はない、本格派の第一人者は俺だ――とクイーンは言いたかったのだろうか。
ところが、どうやら別の事情もあるようなのだ。本格ミステリそのものが、第2次世界大戦の前と後で変質を起こして来たという指摘である。インターネットで検索した「世界ミステリ史概説 5.第2次世界大戦と戦後(1940-1949)」には、こんなことが書かれている。
「戦争前と違って、名探偵が古い屋敷で連続殺人の謎を優雅に解くような作品は見られなくなっていく。2つの大戦の間に、すでに社会情勢は変わっていたのだが、多くの探偵小説はそれから眼をそらし、古き良き時代が未だに続いているかのような、一種の現実逃避ともいえる桃源郷に遊んでいた。だが平和は破られ、名探偵たちも現実と向き合わざるを得なくなった」「黄金時代をリードしていたバークリーやセイヤーズは、1940年代になると作品を発表しなくなり、クリスティーは時代に合わせて作風を変化させていく。その流れはアメリカでも起こった。ヴァン・ダインは死去し、C・デイリー・キングは沈黙する。探偵エラリイ・クイーンは『災厄の町』(1942)で住み慣れたニューヨークを離れ、長い模索の旅に出た。アメリカ型のパズル性重視の作風は、急激に姿を消した」
アガサ・クリスティーが「ABC殺人事件」を書いた1936年は、まだ本格ミステリが栄華をきわめていた時代である。1940年代になって、本格ミステリはもはや時代遅れだという批判が巻き起こったとき、多くの本格派作家たちは動揺し、作風の転換を図った。中でも一番動揺したのはエラリイ・クイーンだった――そんなことを評論家の瀬戸川猛資がどこかで書いていたように記憶する。
「ローマ帽子の謎」に始まる国名シリーズで「読者への挑戦状」を叩きつけ、バーナビー・ロス名義で傑作「Yの悲劇」などを残した本格派中の本格派、クイーンの作風も、「災厄の町」から大きく変わる。それから7年後に書かれたのが「九尾の猫」である。クリスティーの「ABC殺人事件」の時代と違って、1940年代アメリカを吹き荒れた精神分析ブームやマスヒステリー、ジャーナリズム報道の要素も「九尾の猫」にはたっぷり盛り込まれている。変わらざるを得なかったのだろう。それでも本格ミステリとしてのレベルを堅持している点は、さすがにクイーンなのだが。(こや)



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2015/10/11 15:36 |
コラム「たまたま本の話」

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