第76回「尊い神聖な血」の物語(モーリツ・ジグモンド)文学に関するコラム・たまたま本の話
モーリツ・ジグモンドと聞いて思い当たる読者は、相当なヨーロッパ文学通であろう。インターネットで引くと、おおむねこう紹介されている。
「1879-1942、ハンガリーの作家。神学や法学を学び、新聞記者となるが、父の仕事の失敗で窮乏生活を送った体験をつづった短編『七クロイツァー』(1908年)で一躍文壇に認められ、作家生活に入る。その後『泥金』(1910年)や『神の背後で』(1911年)などで、自然主義からリアリズム作家に脱皮する。各地を取材し、農村や地方町の支配層の退廃した生活、貧しい農民の姿をリアルに描き、社会派の作家として人気を博す。ハンガリー近代散文学の祖で、ハンガリー・リアリズムの創始者である。他の作品に『ウリ・ムリ』(1928年)、『幸せな人』(1935年)など」
そのモーリツの出世作「七クロイツァー」は、ずいぶん以前から邦訳されていて、最近では傑作短編アンソロジー「青ひげ公の城―ハンガリー短編集―」(バラージュ・ベーラ他、徳永康元編訳、1998年、恒文社刊)に収録されている。短い作品だが、一読して余韻を残す。内容に触れるので未読の方はご注意を。
タイトルにあるクロイツァー(Kreuzer)は、オーストリア、ドイツ、チェコ、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、スイスなどで19世紀後半まで使用された通貨の単位である。一般に額面の低い単位なので、コインは銅貨または低品位の銀貨で製造された。
母親と子供の頃の私が、午後の洗濯に使う洗剤を買うために、7枚のクロイツァー銅貨を探し回ることになる。3枚はミシンの引き出し、1枚は戸棚の中で見つかった。残る3枚がなかなか見つからない。かくれんぼの子供を捜すようなユーモラスな描写で銅貨探しの物語は進み、5枚目が掛けてある父の服のポケットから見つかり、6枚目が母自身の着ている服のポケットから見つかった。
残るは1枚、しかし辺りが暗くなってもこれが見つからない。そこに乞食が物乞いに来る。洗剤を買うにも1クロイツァー足りない貧乏暮らしで、恵んでやれないと母が言うと、何と乞食が1枚のクロイツァーを逆に施して去っていく。ついに7クロイツァーそろった。洗剤は買えるが、しかしすでに夜になっていて、洗濯をするために家を照らすランプの油が買えないのだった。切ない話だが、さらに切ないのは結末で、ことの次第に大笑いしていた母が急に咳き込み、吐血する。その「尊い神聖な血」を見ながら、私は他の貧しい誰にもまして、心から笑うことのできた母を誇りに思う――。
リアリズムというよりも、宗教観に満ちあふれた傑作であろう。乞食がくれた1枚の銅貨は実はキリストからの贈り物であり、母が吐いた血は磔刑に処されたキリストが流した聖なる血にも匹敵するのではないか。そんなことを思わせる物語になっている。
そこで思い出すのは、作者のモーリツ・ジグモンドが、晩年の1940年に「みなし子」という中編小説を書いていることだ。後期の代表作とされ、36年後の1976年にハンガリーで映画化されている。ラースロー・ラノーディ監督の傑作「だれのものでもないチェレ」である。VHSが長いこと廃盤になっていて、2015年10月にようやくDVD化された。ちなみに日本での劇場初公開は1979年3月、東京・神保町の岩波ホールであった。
さっそくDVDで何10年かぶりに見直してみたが、やはり素晴らしい映画だと感心した。それとともに、主人公のみなし子、チェレが劇中で歌うこんな歌が妙に気になった。
「星の露を運ぶ黒い凧/僕の恋する黒い瞳の少女/リピチョンベ ラパチョンバ/今日は荷車に乗っておいで/リピチョンベ ラパチョンバ/今日は荷車に乗っておいで」
――おおむねこんな歌詞で、まだ見ぬ母に森で教わったという。チェレは優しくしてくれたおじいさんの前で快活に歌って踊る。調べてみたが歌詞の意味は分からない。しかしチェレの歌い方とは裏腹に、決して明るい歌ではないだろうと感じられる。
ずっと後だが、チェレが家を追い出されて並木道を歩いていると、行き倒れなのか自殺なのか、女性の死体を憲兵が片付けているところに出くわすシーンがあるからである。憲兵はチェレに「あっちへ行け」と言い、枯れたトウモロコシの木を山のように積み上げた馬車に、女の死体を乗せて運んでいく。つまり歌詞にある「今日は荷車に乗って」やって来るのは、まぎれもなく「死」なのである。
映画には、磔刑に処されたキリストを抱くマリア像も出てくる。おじいさんとチェレが教会に礼拝に行くシーンだ。キリストは「尊い神聖な血」を流している。そしてラスト近くのクリスマスの日。豚が喉をかき切られ、殺された後で血を抜かれ(またしても「尊い神聖な血」が流される)丸焼きにされて、食卓に供される。村人たちが集まって晩餐となるが、チェレは何も食べることを許されない。結局、みなし子チェレは引き取られたどこの家でも幸せがつかめずに、クリスマスの夜に一人、牛小屋で炎に巻かれて死んでいく。どこかにいるはずの母に「キリストに私へのプレゼントをくれるように伝えて」と祈りながら。
この映画を見ていると、まだ見ぬ母とチェレの運命が、「七クロイツァー」の私と母の運命にオーバーラップする。両作で母と子の立場は入れ替わっているが、その下敷きにあるのは聖母マリアとキリストの姿なのだろう。過酷な運命をたどるチェレや吐血する母の姿はとても悲惨だ。しかしキリストは死してのち復活する。われわれはそこに救いを求めたいと思う。(こや)


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