第8回 再びチェスタトンについて
(ギルバート・キース・チェスタトン)
芸のない話で恐縮だが、3月に続いて今回もG・K・チェスタトンについて。
経済学者として出発し、類いまれなる学識によって幅広くヨーロッパ文化の領域にまで踏み込んだ著作を数多く残している論客に、高橋哲雄がいる。この人がミステリー評論の世界でも際立った仕事をしていることは、さほど知られていない。内外ミステリーの成長と発展を社会学的にとらえた「ミステリーの社会学」(1989年9月、中公新書刊)は話題になった本だが、実はそれに先立つイギリス文化史に関する長編エッセー「二つの大聖堂のある町」(1985年11月、筑摩書房刊)の中でも、高橋は1章を割いて「ハロゲイトのアガサ」という卓越したイギリスミステリー論を書いている。
アガサとはもちろんアガサ・クリスティのことだが、チェスタトンについても論の中で語っていて、「ミステリーが労働者の読物からどんなに遠いかは明白である」と、目からウロコの指摘を行っている(以下、ストーリーに触れているので未読の方はご注意を)。「たとえば、チェスタトンの代表作の一つに『青い十字架』という短篇があって、そこではにせ牧師に扮した盗人がブラウン神父によって正体を見破られる。そしてそれは彼が『理性を攻撃した』からであり、それは異端の神学なのだからだと『謎解き』が示される。しかし、そんなことを言われても、カトリックの教義に通じていない読者にはついていけるわけがないのである」
あわてて「青い十字架」(1982年2月、創元推理文庫刊「ブラウン神父の童心」所収、中村保男訳)を読み返してみた。確かに終盤にそういう箇所がある。ブラウン神父が犯罪者フランボウと並んでハムステッドの街を歩くシーン。神父はフランボウに対して「あんたは理性を攻撃したではありませんか」「それはよこしまな神学でな」と語る。読み返すまで、フランボウがヘマをやるか手かがりを残すかして、ブラウン神父に正体を見破られたとばかり思っていた。
私事で恐縮だが、筆者は小学生だった1960年代末に「ブラウン神父もの」と出会っている。それは一般向けの文庫や全集ではなく、あかね書房版「少年少女世界推理文学全集」で刊行されていた「ふしぎな足音」であった。「青い十字架」「ふしぎな足音」「飛ぶ星」「スマートさんの金魚」「霧の中に消えたグラス氏」「古城のなぞ」の6編が収められていた。ミステリー評論家の新保博久があるところで書いていたが、子供向けにリライトされた推理小説全集にチェスタトンが収められるのは、きわめてまれな例であるらしく、「難解なところは全部省略されているのに、原作の雰囲気を損ねていない離れ業で、チェスタトン入門書として最適だった」と絶賛している。当時、小学生だった筆者も「青い十字架」をその版で読んだので、作品にカトリックの教義が色濃く出ていることなど分かるわけもなかったのである。
もう一つ、「青い十字架」には分からないところがある。「理性を攻撃した」の少し前の部分で、ブラウン神父がこう言ってフランボウを追いつめる―「あんたはなぜ十字架を驢馬の口笛で引き留めなかったのか」「口笛吹きになるほど悪人ではなかったのか」「口笛を吹かれたら、あしぐろがついていても太刀打ちできなかったでしょう」。フランボウは「あんたはいったい何の話をしているんだ?」と神父に聞くが、これは読者にも分からない。
ヤフーの知恵袋でその点を尋ねていた人がいて、回答者いわく、原書では口笛吹きは「Whistler」または「Donkey’s Whistle」、あしぐろは「Spots」(斑点)になっているという。ニュアンスからして本義とは異なる意味をこめた隠語のように思われるが、どうもチェスタトンの造語らしく、回答者も意味がよく分からないと言っている。ブラウン神父が自ら言うように、悪人の告解をずっと聞いてきたカトリックの神父だからこそ、そうした裏社会の隠語らしき言葉にも通じていたということだろうか。
チェスタトンは1922年、知人のオコンナー神父の手によって、イングランド国教会派から、ブラウン神父と同じローマ・カトリック教会派に改宗している。ブラウン神父シリーズの短編集全5巻のうち、「ブラウン神父の童心」(1911年)と「ブラウン神父の知恵」(1914年)が改宗前、「ブラウン神父の不信」(1926年)、「ブラウン神父の秘密」(1927年)、「ブラウン神父の醜聞」(1935年)が改宗後に書かれている。タイトルだけ並べてみても、童心(Innocence)や知恵(Wisdom)に比べて、不信(Incredulity)、秘密(Secret)、醜聞(Scandal)と、改宗前と改宗後の違いは際立っている。作品内容も、後期になるにしたがって神学的、宗教的色彩が強くなる傾向にあることは、衆目の一致するところだろう。
コナン・ドイルはシャーロック・ホームズ短編集に「冒険」「回想」「生還」「最後のあいさつ」「事件簿」とタイトルを付けた。ほかの名探偵シリーズを見ても「事件簿」が多い(日本で独自の傑作選を作る場合はたいていそうなる)。なぜブラウン神父ものだけ童心(善)から始まって醜聞(悪)で終わるのか、不思議だったが、改宗と絡めて考えると腑に落ちる。カトリック教会派のチェスタトンは、そしてブラウン神父は、時とともに人間性の洞察をより深めていったのだ。(こや)
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