喜劇王チャールズ・チャップリンがこの世を去ったのは1977年。没後40年の節目に当たる今年、チャップリン関連本が日本でも続々と出版されている。新潮社は自社のロングセラー「チャップリン自伝」(原著1964年刊)の新訳を企画。チャップリンが自らの前半生を振り返る「若き日々」(2分冊の前編)が新潮文庫で刊行された(2017年4月)。中野好夫の定評ある名訳を引き継いだのは1955年生まれの翻訳家、中里京子。こんな一節がある。
「セネットはわたしを脇(わき)に呼んで、映画の制作手法を説明した。『シナリオなんてものはない――アイデアがひらめいたら、自然な出来事の流れに従うだけさ。追っかけが始まるまでね。それが我々のコメディーの本質なんだ』」
セネットとは映画監督でプロデューサーのマック・セネットのこと。キーストン映画社を率いて一躍、アメリカ映画界の寵児となった。間抜けな警官が登場し、右に左に追いかけっこをするサイレント喜劇「キーストン・コップス」シリーズを矢継ぎ早に制作した。イギリスのカーノー劇団の一員としてミュージックホールの舞台に出ていた演劇人チャップリンを見出したのは、このセネットである。1913年、契約を取り交わしてアメリカに渡ったチャップリンは、翌1914年にキーストンから映画俳優としてデビューする。記念すべき第1作は、ドタバタ喜劇「成功争い」であった。
チャップリンはセネットの手法を認めながらも、全て信頼していたわけではなかった。キーストン喜劇の「手法は目新しかったが、個人的に言って、追っかけは嫌いだった。それは俳優の個性を消し去ってしまう。映画についてはほとんど知らなかったものの、個性に勝るものがないことだけはわかっていた」「粗野なドタバタ喜劇のごちゃまぜにすぎないと感じた」と自伝で書いている。自分はイギリスの舞台で鍛えた演劇人で、キーストン流の十把一絡げの喜劇俳優とは違う――という矜持があったのだろう。
その矜持が実を結ぶ機会は、意外に早くやってきた。キーストン2作目(公開順は3作目)の「メイベルのおかしな災難」を撮影していたときのこと。日本チャップリン協会会長・大野裕之が、新著「チャップリン 作品とその生涯」(2017年4月、中公文庫刊)で書いている。「その歴史的な瞬間とは、1914年1月6日――雨の日の午後のことだった。チャップリンは、ホテルのロビーのセットの前にいた。セネットは葉巻をくわえたまま、『なんかここでギャグの欲しいところだな』と言って、チャップリンの方を振り向いて、『おい、なんでもいいから、なにか喜劇の扮装をしてこい』と言った。『とっさにそんな扮装など思いつくわけもなかった』が、『衣裳部屋に行く途中、わたしはふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、それにステッキと山高帽という組み合わせを思いついた。だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、とにかくすべてにチグハグな対照というのが狙いだった』。そして、セネットに若いと言われたことを思い出し、小さな口髭をつけた」
「放浪紳士チャーリー」が誕生した瞬間だった。従来のキーストン喜劇とは異なるこのキャラクターは、それゆえに現場の監督たちとしばしば衝突したが、ニューヨーク本社からの1通の電報で状況は一変した。電報には「チャップリン映画が大当たりしているから、至急もっと彼の作品をよこせ」とあった。「大衆は、それまで見たことのなかったチャーリーの個性に魅了され、彼は瞬く(またた)間にスター・コメディアンとなったのだ」と大野は書いている。
以来、半世紀以上にわたって、チャップリン喜劇は世界中を席巻する。その様子は、多くの研究書に詳しく書かれているから割愛する。今回、チャップリン没後40年に改めて思うことは、日本および日本人はごく初期のころから喜劇王チャップリンの最大の理解者だった――という事実である。大野の前掲書がそのことを教えてくれる。
「1914年2月2日に映画デビューを果たしたチャップリンは、早くもその5か月後には、日本で初めて雑誌に登場した。日本初の映画評論雑誌『キネマ・レコード』の、1914年7月号に、変(へん)凹(ぺこ)君(くん)と名付けられ」紹介されたという。このときはまだ新人だから、記事にチャップリンの名前はない。「だが、特異な扮装と滑稽な歩き方から『変凹君』と名付けられたことをみても、日本でもまずその個性的な演技が注目されたことが分かる」
さらに「デビュー2年目の1915年になると、ますます他のコメディアンとは違うチャップリンのユニークさが意識され始めた。大勢が入り乱れて追いかけっこをする従来のドタバタ喜劇に対して、チャップリンは個性をじっくり見せる特異な喜劇役者であることに観客は気づいたのだ。このあたりから日本でもチャップリン人気はうなぎ上りとなっていき、酔っぱらい演技の巧みさと独特の歩き方から『アルコール先生』というあだ名が定着した」。日本公開タイトルも「チャップリンの拳闘」「アルコール先生公園の巻」という調子になっていく。映画のチラシでは、チャップリン映画を「グニャグニャ喜劇」と呼ぶケースもあった。一度見たら忘れられない、よほど強烈な個性だったのだろう。
共通するのは「変凹君」も「アルコール先生」も「グニャグニャ」も、チャップリンの容貌や演技の独自性に対して与えられた呼称だということだ。つまり彼は、はなから追っかけ喜劇の一登場人物ではなかったのである。アルコール先生は、その個性を貫いたまま、「黄金狂時代」「サーカス」「街の灯」「モダン・タイムス」などの傑作を世に問い、世界の喜劇王として88年の生涯を閉じた。(こや)
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