第84回 40年と2か月と5日目に(ギルバート・キース・チェスタトン)文学に関するコラム・たまたま本の話

きわめて奇妙な話を読んだので紹介したい。長い年月にわたり、判で押したようにオフィスを出ては同じ道を通って家に帰って行った男(わたし)が、ある日どういう体験をしたかという物語である。
「40年にわたり、わたしは判で押したように右手に雨傘、左手にかばんを持って、レドンホール・ストリートにあるオフィスを午後5時半に出ました。40年と2か月と4日にわたり、横手のドアから出て、街路の左側を歩き、最初の角を左へ曲がり、3番目の角を右に曲がり、ここで夕刊を買ってから、道路の右側を道なりに進み、ゆるやかな曲がり角をふたつまわりこむと、メトロポリタンの駅のすぐ外側に出ますから、ここで帰りの汽車に乗りました。40年と2か月と4日にわたり、この順路を歩くのが、長年の習慣になっていました」
しかし40年と2か月と5日目を迎えたとき、「わたし」の身に異変が起きる。歩き慣れたはずの街路を歩いていると、なぜか息が切れて疲れて来たのだ。最初は体調不良かと思ったが、そうではなかった。いつもより道路の傾斜が急激になっていたのである。街路はいまや険しい斜面となって「わたし」の前にそそり立っていた。
この奇妙な話を書いたのは、誰あろうギルバート・キース・チェスタトン。「ブラウン神父」シリーズで有名な論客である。この春、出版されたアンソロジー「12の奇妙な物語 夜の夢見の川」(シオドア・スタージョン、G・K・チェスタトン他、中村融編、2017年4月、創元推理文庫刊)に、編者・中村の新訳で収められている。タイトルは「怒りの歩道――悪夢」。引用は同書に依った。作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
話は続く。「わたし」は街路で1人の男に出会う。男は「この街路は普段あなたが通っている街路だが、今このときは天国へ通じている」「野のけものや、馬や、犬は、自分の仕事以上のことをさせられ、それでいて、それにふさわしい名誉にあずからなかったら長くは耐えられません」などと不思議なことを語る。「道路だって同じことです。あなたはこの街路を死ぬまで働かせた。それなのに、それが存在することを記憶していなかった。もし健全な民主主義の持ち主であれば、たとえ異教のものであっても、この街路に花綵(はなづな)を垂らし、神さまの名前をつけたことでしょう。そうすれば、この街路はおだやかに世を去ったでしょう。しかし、この街路はあなたの不断の横暴にとうとう愛想をつかしたのです。そして跳ねあがり、天国に向けて頭を起こしているのです」と。
街路がレジスタンスを起こして斜面になってしまう――という展開には驚くが、それに続く結論にはさらに驚かされる。「街路というものは、行かなければならない場所へ行くものです」「来る日も来る日も、来る年も来る年も、それはオールドゲイト駅へ通じていました」と、当然のように反論する「わたし」に対して、男はこう諭すのだ。「道路があなたのことをどう考えていると思うんです? 道路はあなたを生きものだと考えるでしょうか? あなたは生きていますか? 来る日も来る日も、来る年も来る年も、オールドゲイト駅へ行き……」。その日以来、「わたし」は無生物というものに敬意を払うようになった。物語はここで幕を閉じる。
さて――この奇妙な話の教訓は何か? 無生物と生物には垣根がないという警句か。判で押したような日常を送る人間と街路とは何ら変わらないという逆説か。チェスタトンという作家の持っている資質から考えると、単に「無生物をけなげに扱ってはいけません」という教訓話を書いたとは思えないのだ。いろいろな見解があるだろうが、ひとつの見方を示したい。
1874年、ロンドン西部ケンジントンの不動産業、土地測量業者の家に生まれたチェスタトンは、やがてイングランド国教会の教義に引かれていく。イングランド国教会は、反カトリックのプロテスタントに見なされることが多い(異論もある)。そもそもカトリックから分派したプロテスタントには、その名前に「カトリックに抗議する」意味も込められている。ところが、かのチェスタトンは1922年、信頼できる神父の手によってイングランド国教会からカトリックに改宗してしまうのである。インターネット資料にはそう書かれている。
彼が「怒りの歩道――悪夢」をデイリー・ニュースに書いたのは1908年だから、まだ「ブラウン神父」シリーズも書かれていない時期である(第1短編集「ブラウン神父の童心」は1911年に刊行)。この頃からチェスタトンは、カトリックとプロテスタントの教義の間で、自らがどちらの道を歩むべきか、揺れ動いていたのではないか。
よく言われることだが、カトリックによる権威の順は神・教会・聖書・信者というもの。教会こそが神の恵みを取り次ぐ者であるから、聖書の上位に来る。それに対してプロテスタントは神・聖書・教会(信者の集まり)の順になる。聖書は神の言葉だから権威があり、それに基づいて教会が形成されるという考え方である。
チェスタトンの「怒りの歩道――悪夢」に通じるものがあるではないか。つまりカトリックとプロテスタントの「上位に来るのは教会なのか聖書なのか」という教義の違い。この奇妙な話に登場する謎の男が神であるとすれば、神の恵みを取り次ぐべき者は、果たして生物である「わたし」なのか、無生物である歩道なのか。いま私がいるこの歩道は正しい教義の道なのか。歩道が正しいとしたら、間違っているのは私ではないのか。チェスタトンは自らにそう問いかけているようにも読める。(こや)



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