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2024/04/19 10:26 |
第85回「2壜の調味料」ななめ斬り(ロード・ダンセイニ)文学に関するコラム・たまたま本の話

電子書籍「文学コラム・いいたま」を公開しました

ロード・ダンセイニもしくはダンセイニ卿(Lord  Dunsany、1878年7月24日 - 1957年10月25日)については、以前もこのコラムで書いたことがある(2013年5月)。そのとき取り上げた「2壜の調味料」について今回、再び書く。作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
物語は周知のように、イングランド南西部にあるノース・ダウンズの家で、スティーガーという男と同棲していた娘が失踪する。スコットランド・ヤードがずっと男の家の周囲を監視しているが、失踪した娘の行方は全く分からない。「スティーガーは娘の遺体を焼いていない」「庭に埋めてもいない」「娘が失踪してから一歩も庭の外に出ていない」「肉料理だけに使用する調味料ナムヌモを2壜、購入した」「庭に植わっている10本のカラマツの木を1本ずつ切り倒して薪にしていった」などの状況証拠をつかむが、肝心の娘の消息は謎のままである。殺人の証拠が見つからず、頭を悩ませるスコットランド・ヤードに対して、素人探偵のリンリーが突きつけた結論は次のようなものだった――「スティーガーが、殺した娘に調味料ナムヌモをかけて食べてしまった」。
ただし本文にはっきり書かれているわけではない。殺人の描写もなければ、人肉を食べる描写もないので、実を言えば真相は藪の中である。リンリーの結論は単に推測の域を出ない。にもかかわらず、この作品が名作とされるのは、結末の一節があまりにも見事だからである。「しかしなぜあの男は木を切り倒したのでしょうか」と首をひねるスコットランド・ヤードの警部に、リンリーはこう答えるのだ――「ひとえに食欲をつけるためです」。この一言が効いているがゆえに、ふと頭をよぎったはずの疑問もすべて忘れ去られてしまう。
疑問とは他でもない。娘の骨は一体どうしたのか?――ということである。人肉は食べても、さすがに骨までは食べないだろう。排水管から遺体の痕跡が発見されず、家の煙突から遺体を焼いた匂いが確認されなかったのだから、娘の骨は家の中に隠してあるのか? しかし警察が踏み込めば、骨はたやすく発見される。そうすれば逮捕は免れない。それでも男は、殺人の証拠を隠そうとして、娘の肉を必死に食べるだろうか。ミステリの証拠隠滅としては、いささか常軌を逸している。ということは「2壜の調味料」の遺体を食べる行為は、あくまで証拠隠滅のトリックではあるが、同時に何か他のものの象徴になっているのではないか。
ダンセイニという作家はどんな人物だったのか。アイルランドの小説家、劇作家であり、軍人でもあったが、デンマーク系旧家の貴族の出身である。だから名前に「卿」(ロード)がつく。作家としては、主に「影の谷物語」「エルフランドの王女」「魔法使いの弟子」などファンタジーの分野で大きな足跡を残した。つまりは幻想文学の書き手なのである。何しろ彼の代表作「ベガーナの神々」は、ケルト神話に基づいた多神教の物語なのだから。ミステリの執筆などは余技も余技であった。
ベガーナは「Pagan」からの造語。Paganには異教徒の意味があるが、これは一神教のキリスト教から見て多神教は異教徒ということだ。ダンセイニの生まれたアイルランドは、現在でこそローマ・カトリックが主流を占めるが、もともとはケルトという多神教が優勢だった土地である。その土地でダンセイニは、いわば多神教の創世記である「ベガーナの神々」を書いた。一神教と多神教の考察こそが彼のテーマだったのだろう。とすれば、ミステリとして書かれた「2壜の調味料」にも、その宗教理念が流れているのではないか。
人間が人間の肉を食べることをカニバリズム(食人嗜好)という。スティーガーが「娘はどこに行ったか」と聞かれて、「南アメリカ」と答えている(後に「南アフリカ」と言い直した)ことは興味深い。なぜならカニバリズムはスペイン語の「Canibal(カニバル)」に由来する言葉で、「Canib-」はカリブ族のことを指している。16世紀のスペイン人航海士たちの間では、西インド諸島(つまり南北アメリカの間)に住むカリブ族が人肉を食べると信じられていた。そのためカニバリズムという言葉には「西洋キリスト教の倫理観から外れた、蛮族による食人の風習」の意味合いが強い。
ここで南アメリカを持ち出してくるスティーガーを、20世紀イングランドのノース・ダウンズに現れたカニバリストだとすれば、彼は西洋のキリスト教的倫理観に挑戦状を突き付けた蛮族となるだろう。しかしながら、聖餐という概念がキリスト教にあることを忘れてはならない。イエス=キリストは、最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子たちに与えて「パンは私の肉であり、ぶどう酒は私の血である」と語ったという。それにちなんでパンとぶどう酒を会衆に分け与えるキリスト教の儀式――それを聖餐と呼ぶ。聖餐はかつてカニバリズムと結びついていて、生け贄になる者は神の化身として殺されるばかりでなく、その肉を食べられ、血を飲まれることによって、自分を食べた者と同一化する。それは食べた者も食べられた者も神のからだになることであり、神の聖なるからだが再生するときに、共に復活することができる。
「2壜の調味料」が聖餐の物語だとすれば、食べられてしまった娘は、スティーガーの中で同一化し、やがて神のからだとなって再生するであろう。キリストの言葉が自分の肉と血にしか言及していないのに倣うかのように、骨は除外されている。スティーガーはパンのつもりで娘の肉を食べ、ぶどう酒のつもりで娘の血とナムヌモを飲んだのである。「2壜の調味料」は、ミステリの意匠をこらした死と復活の物語なのではないか。(こや)


ロード・ダンセイニをWIKI PEDEIAで調べる

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2017/09/06 13:15 |
コラム「たまたま本の話」

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