第90回 文豪・文士、映画を語る(司馬遼太郎、松本清張ほか)文学に関するコラム・たまたま本の話
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斜陽の映画業界を、あなただったらどう改善しますか――と問われ、ある作家はこう答えている。
「ぼくは簡単なことだと思うんだ。お客さんがイージーに見にゆけんようにしたらいい。まず、田舎の映画館を整理することですね。都会でも場末の館は転業させて、一流の映画館だけ残す。そして、観客がフロアに入ってきたときから『これはゴージャスなもんや』と驚くような――いわばホテル・ニュー・オータニ式の雰囲気(笑)を盛り込む。場内では必ずオーヴァーはぬがし、ちゃんとした姿勢で見させる。ちょうど、18世紀の芝居見物と同じようなマナーを要求するわけです」
映画の観客を外食券食堂に並ばせるのでなく、金屏風の前に座らせなくてはならない。そう主張する作家は誰あろう、司馬遼太郎(1923年生まれ)である。「キネマ旬報」1965年3月上旬号の「『映画革命』に関する対話」で、時事通信記者・岡本太郎のインタビューに答えている。小さな町にも1つはあった映画館がなくなり、環境設備の整った都心のシネマコンプレックスで特別料金を払って3D、4D映画を楽しむ。そんな現在の映画鑑賞の姿を、さながら予見しているかのようだ。
1958年に戦後最高の11億2,745万人あった映画観客動員数は、テレビの普及などによって翌年から急激に減り始めた。その7年後、司馬発言のあった1965年は、映画産業の不況が深刻な社会問題となった年である。映画館数で見ると、1960年の7,457館から、1965年は約4割減の4,649館にまで落ち込んでいる。娯楽の王者が衰退していくのを、指をくわえながらただ眺めているだけ。おそらく司馬はそんな状況に我慢できなかったのだろう。
埋もれていたこの対談記事を発掘してくれたのは、先日、刊行された「文豪文士が愛した映画たち 昭和の作家映画論コレクション」(根本隆一郎編、2018年1月、ちくま文庫刊)である。明治時代に産声を上げて、大正時代に花開き、昭和時代に全盛を迎えた映画というメディアについて、かつて文豪や文士がどんなことを書いていたか。「モンローを川端が語り ヒッチコックを乱歩が論じる シネマに魅せられ、熱く語った作家たち」(帯のコピー)の貴重な記録が51編、収められている。
一読して興味深いのは、映画というメディアに対するスタンスの違いである。これは世代によってかなり変わってきている。極端に言えば、昭和初期までの文豪にとっては、映画などという娯楽は芸術でないのだから、たしなみ程度に書いておけばいいという認識があったように思う。
「しかし映画というものは記憶しないものだ。きょうのだって誰の次に誰が出たという場所はもう記憶していない。映画ってどうして芝居やなんかと違って忘れてしまうのだろうね。細かいところをみんな忘れてしまいましたよ。早いからでしょうね」(1955年)。これは「女優ナナ」(クリスチャン・ジャック監督、1955年、フランス)を見た、1879年生まれの永井荷風の言葉。
「大衆に金を払わせるものは、『芸術』であってはならない。『娯楽』でなければならない。『芸術』というものは、本質は、全く面白くないものである。もし、それがすこしでも面白かったら、それは『芸術』の枠から、はみ出してしまっているのである。『芸術』には、一般大衆に理解させようとする努力が払われる必要はない。それが判る人だけに、提供されるべきものである。映画が、どう考えても『芸術』として成立つわけがない。それをどうして映画人たちは『映画芸術を』とうそぶくのか。阿呆らしい話である」(1966年)。この批判の主は1917年生まれのシバレンこと柴田錬三郎。自作の「眠狂四郎」はずいぶん映画化されているが。
他にも、内田百閒(1889年生まれ)や佐藤春夫(1892年生まれ)は、「映画を見ない、好きではない」とエッセーで公言している。多くの文士たちにとっては「たかが映画」に過ぎなかったのである。ただし、そうではない文豪もいる。谷崎潤一郎(1886年生まれ)は、すでに1921年の日本公開時に「カリガリ博士」(ロベルト・ウィーネ監督、1919年、ドイツ)の芸術性を高く評価していた。
映画を芸術として認め、その表現手段が文学の脅威になると認識していたのは、松本清張(1909年生まれ)であろう。1974年に発表されたエッセー「スリラー映画」の中で、推理小説と映画の違いについてこう書いている。
「小説は何時間も何日間もかかって読むことが出来るが、映画は2時間くらいで終了せざるを得ない。この時間の拘束が、観客に考える余裕を与えない。謎解きを主とした推理小説は、読者が途中で速度をゆるめたり休んだりすることで、謎を考えることが出来るが、映画の観客は絶えず忙しく画面の流動に眼をさらされることを余儀なくされる」。そして「謎解きを主とした推理映画のむつかしさがここにある」と述べ、「それにくらべると、加害者の企みも見せ、被害者の危機も見せるスリラー映画は安心である。そこには思考の負担が少なくなり、行動だけでスリルを描くことが出来る」と、推理小説とは異なるスリラー映画の独自性に賛辞を送るのだ。
かつてサスペンス映画の名匠アルフレッド・ヒッチコックは「本格推理はサスペンスを生まない」という名言を残した。それと通底するものがある。松本清張の小説は数多く映画化、テレビドラマ化されていて、映像メディアとの相性の良さが指摘されるが、その理由の一端を垣間見た気がする。(こや)「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。

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2018/02/10 13:59 | コラム「たまたま本の話」

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